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『青空の話』

2025.9

 

 

 

海辺の町の話です。

昼間なのに暗い、荒れた天候の某日、その女性は、ガタガタと音を立てる窓枠を見ていましたが、やがてまだ白紙の原稿用紙に視線を落としました。
彼女は婦人雑誌の執筆者の一人で、先月の始めごろに会った、ある男のことを記事に書こうとしていたそうです。
浜で会ったその男は、全身が入るほどの大きな籐製の籠のようなものを砂地に置き、周りに大きな布を広げていました。
何をしているのかと訊くと、男は
「これで外国まで飛んでいくのだ」と。

飛んでいくとは果たして。

見ると布と箱とは何本もの太い縄で繋がれ、箱には鈍色に光る機器が幾つか据え付けられています。
女性記者がガス気球を見たのは、そのときが初めてでした。

今、彼女の仕事机には、ガス気球の資料と共に、その男の言行をまとめた帳簿が置かれています。

彼は名を西田と言い、数年前には女学校の教師をしていたとのこと。
そういう履歴であれば女性記者も女学校を出ていたので、少しは親しい気持ちを持ってもおかしくなかったのですが、淡々と気球を仕上げている表情や仕草からは不思議な、どちらかというと現実離れした印象だけが伝わってきたそうです。
籐の箱に気嚢を結びつけたその男は、彼女が女性記者と知って、笑顔のままじっと見つめ返してきました。
そして何かしらの言葉を待っている女性記者に、頑張っておるね、というようなことを呟いたそうです。

彼、即ち西田先生は以前勤めていた学校で、頗る政治的な発言をしていたそうです。
まず民本主義。いわゆるデモクラシー。
男女平等、自由選挙、女学生相手ゆえ一際に「女性にも選挙権が付与されるべきである」などと、教室ですら、そういった類の話を繰り返していたそうです。
あるとき西田先生は学校に来ているにも関わらず、全ての授業、あらゆる校務を放棄することがありました。
何故そのようなことをしたのか。
目的は「労働環境の改善」。
周囲には殊更に身勝手で理屈の通らない行動に見えたことでしょう。
もちろん同僚の教師たちにとって、ストライキという思想が西欧にあることは既知の事項でした。
ただ学生たちは戸惑うばかりだったようです。
良い環境で働きたいから今は働かない。
子供か。

女性記者が入手した帳簿に連なる言行録には、十日ほど公務の放棄は続いたとあります。

その間、男は毎日学校に来て何をしていたか。
理解し難いことですが、時計台に登り、広がり行く青空をただ見ていたそうです。
暫くして先生は学校を辞めました。
そして行方がわからなくなりました。

女性記者はあの日、浜で、結わえ付けられた気嚢を広げたり延ばしたりして気球全体の形状を整えている先生の笑顔が、どことなく寂しそうに見える理由が少し分かったような気がしていました。

彼は何も言わず、気球内部のバーナーに火を点け、シリンダーから送り込まれるガスで気嚢を膨らませていきました。

女学校を辞めた西田先生は、四人の進歩的な考えを持った仲間と共に、信州の山間で共同生活を始めたそうです(この文章の引用や情報の源は、女性記者自身が聞き書きをした取材録と、先生自身の日記中心へと移ります)。

当時の先生の発言に散見されるのは「個人の自由」という言葉、そして「全世界」という文言です。
「平等」や「民本主義」といった思想が、より一層根源的なものに進化した現れでしょう。
先生を中心とした共同生活は、集団内の連携が基盤でした。
しかしそれだけ、外の世界との断絶は深まります。
世界の認識については、人間の内なる精神同士がやがて合一するという、極めて楽観的な見通しの上に成り立っていました。
四人の仲間たちとの対立が修復不可能になったのも、その楽観的な見通しが原因であったと思われます。
山間の厳しい環境や栄養不良、不安定な心理と人間関係などの現実が、理想を破綻させていくまでにそれほど時間は必要なかったようでした。
先生は遂に共同生活の終焉を宣言しました。
疲れ切った仲間たちの本心を慮ったのでしょう。

女性記者が入手した彼の日記帳の、終焉を決めた時期の頁には、不思議と清々しい言葉が並んでいました。

さて気嚢下部の合皮が広がり、暖気が送り込まれるようになってから確実に、気球はその全体像を出現させていきます。
女性記者の予想を上回る大きさになった気嚢が、太陽を遮ります。
圧倒され、言葉も出ない記者の目前で、先生を入れた籐の箱が地面から浮き上がりました。
記者はようやく、ここで目にした出来事を記事にしていいか、と確認の言葉を発しました。
先生は少し考えてから、どちらでもいいですよ、と答えました。
その笑顔は先ほどより一層寂寥感を強めていたように見えました。
地面に繋いだ縄を切ると、先生を乗せた気球は重力から解き放たれたように、上昇していきます。
浜に工具やらゴミを散らかしたまま。

私が片付けないといけないの?

彼女の頭を些末な思いがよぎりましたが、次に見上げると、気球はもう戻ってこれない位置に浮かんでいたように見えました。
そのとき女性記者は気づきました。
気球で飛び立つことは聞かされたが、行先である外国とはどこなのか聞かされていない。
先生、あなたはどこに行こうとしているのですか?
声は上空の強い風にも邪魔され、届かないでしょう。

恐ろしいぐらいに晴れ渡った空があります。
その日の空がそうでした。
気球と一緒に自分の意識まで、広大な青い無に吸い込まれていくように思え、彼女は気をしっかり保つよう努めたようです。

原稿用紙の上に文鎮代わりの丸石を置き、女性記者は文机の前の窓を開けようと立ち上がりました。
先ほどまで騒がしく音を立てていた窓枠が、嘘のように静かになったからです。

窓の外は、気球が飛び立った空と同じく快晴です。
どこにも降り立つことのない飛翔。
先生はどこまでも自由な青い空に消えていったのです。//

 

 

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