民間伝承。いかりや長介。
「♪いかりや長介、あったまはパー・・」
記憶の中の愉快な一節。
子供の頃、じゃんけんをするとき頭に付けられていたフレーズである。愉快ではあるが、同時に大の大人をつかまえて「♪あったまはパー」。無礼である。事実と虚構の区別がつかないにも程がある。子供だった自分たちにそう思う。
ドリフの面々を追い回し叱りつける「いかりや」はまさに大の大人だった。
箒を振り回し怒るいかりや母ちゃんは生活苦をにじませていたし、いかりや先生は「なぜ教師がメガホンを?」という疑問はあるものの生徒たちを律しようと大声を出し続けた。どっかの週刊誌にも書いたが、ドリフにある「父親vs四悪童」の関係は、TVが茶の間をエンターテインしていた時代にとってもリアルだった。
ドリフと言うと四段階スライド方式の笑い。
「オィーッス!声が小さい!」と自ら前説を買って出る座長いかりやのもとに、まず「ブー」が現れる。彼は特に悪くはないのに殴られる(しかもお下げ髪で「ブー子」などと命名されているのに同情すら覚えてしまう)。次に仲本が駆け込んで来て子供に不釣り合いな競馬の知識を早口でまくし立てる。荒井注は殴られ真顔になる。そう、「あんだバカヤロー」である。そしてお待ちかねの加藤が両手を半ズボンに差し込みひょこひょこ入って来て「母ちゃんただいま~。一本つけろや。」倒れる4人。ここでなんとなくのオチである。「なんとなく」というのは「起承転結」があるんじゃなく、ただただエスカレートしていく笑いだ、ってことで。強いて言えば全員集合の「オチ」は舞台装置だった。舞台崩しであったり、人形や動物やジャンボマックスが登場したり。すわ親治が奇声を上げて駆け抜けるのもそんな一つだった。あの人の身のこなしは「人間舞台崩し」とも言える迫力があった。
しかし、この四段活用の延長線上にある日(と子供には思えた)貪欲な末っ子が登場する。荒井注に代わって加入した志村さんである。最初こそ違和感があったものの、この末っ子はドリフに異様なパワーアップ、つまり「悪のり」をもたらすことになる。・・というのは、オチは加藤さんで一応ついてたわけで、だからこそ志村には「要らんこと」が存分にできるってこと。もちろん加藤までも要らんことばかりをやってたんだけど、プロットのルールに縛られない「要らんこと」を自由に付け足せるのはオチ後に出現する志村なのだ・・・加藤の机前で懇々と説教するいかりや先生の背後をするするっと周り、教卓で重々しく「起立。」と言う。思わず生徒のように気をつけをするいかりや。何食わぬ志村の号令は「礼。」「着席。」と続き、その直後の「えー、今日は性教育をやっていく」って言葉で我に返ったいかりやの爆発を呼ぶ。加藤と「だまされてやんのー」とはしゃぎ、逃げ回り、「怒っちゃやーよ」を連発する「要らんことの神童」志村に、終わりの無い楽しさが散らかり広がる。
思うにこの「怒らせる/許してね」っていう気分が対いかりやギャグの神髄なのだろう。父親にいたずらを仕掛ける悪童たちの真情。志村の「アイーン」(殴り返しそうで殴り返さない)ってギャグも、「お前それは無いだろう」って芝居掛かって言うギャグも、加藤の「すんずれいしました」も「いやあ~参ったー参ったー」も、怒られて出て来るフレーズなのだ。
すわ親治さんの携帯の着メロは「♪いっかりやに、あ、おっこられた」という加藤小唄である。お通夜にも誰か関係者の携帯が♪いっかりやに、っと鳴り出しなんとも愉快な風が吹いたらしい。この可愛らしい囃子文句にドリフの家族的おかしさが表れてますよ、ほんと。だってね、4人のいたずらの余りのバカバカしさに、思わず長さんが吹いて、恐い顔が笑顔になったとき、僕らは4人と共になんとも嬉しい一体感を味わっていたのだよ。「恐い顔しないで一緒にバカやろうよ」そんな気持ちのつながり。
最近驚いたことだが、今だに「♪いっかりや長介、あったまはパー」というじゃんけんは子供たちの間にあるらしい。もはや「いかりや」は固有名詞でなくなりつつある。もうなんか季語とかに近い。この無礼なじゃんけんはこれからずっと日本人の童心に残って行くのかもしれない。しかしそれは一コメディアンという存在を越えた、計り知れない影響の大きさを天真爛漫に伝えていく、実に嬉しいじゃんけんではないだろうか。