ひとりベケット

難しい話ではなくすわさんとの出会いのこと。

 すわ親治さんと「面白いことやりたいっすねー」って初めてそれっぽくお話しさせてもらったのが2002年3月。高田馬場の居酒屋。店の人になんだか個室に案内されたんだけど狭かったねー。あぐらをかくにも窮屈。どことなく「屈葬」みたいになってた二人。

 全員集合!やネコ車ダンスの話あたりから。故林企画との意外な組み合わせ感が楽しくなりそう。動きのエキスパートと言葉重視の台本とが出会うとどうなるのか。と引き合わせた木村万里さんの期待。

 年令はすわさんがだいぶ上(50才)だけど「年輩の人のたたずまいが、不条理コントじゃなんとも説得力を持つってこと」はこれまでも感じてきた。舞台に何気なく立って絵になるというか。沈黙のうちに「こぼれて」くるおかしみ。いわば人生のようなもの。

 そのへんでパチッとつながったのが不条理劇の代名詞サミュエル・ベケット。『ゴドーを待ちながら』って芝居で、ただただ舞台上で待ってるだけの姿をさらす二人の浮浪者は「老人」って設定。これが若い人や女性ってキャスティングの時があって、なんとも薄っぺらく見えたもの。わけのわからんことをやる時ほど、説得力ある身体が効いてくる。

 後日すわさんにも読んでもらったベケット作の一人芝居『クラップ最後のテープ』。誕生日ごとに自分の声を録音する独りぼっちの老人。「これ読んでわかるやつって、頭おかしいよ」何人かがそんな感想。わからんのですよ。でも、意味の無いことを繰り返す現実、そこに出現する摂理に人は時間や運命なんかを案外実感するもの。

 何かが言葉(日常)をふっと越える瞬間。一つの決め手は身体。

 ベケットのト書きには歩数や移動距離なんかが妙に詳しく指定してある。言葉への不信?ベケット本人が言うには、『ゴドーを待ちながら』の二人の浮浪者役のイメージは最初、チャップリンとキートンだったとのこと。 

 言葉を削ぎ、意味を落として最後に残るもの。その不条理をすわさんの身体一つでわかりやすいコメディに仕上げていく。道はまだ途中ですがひとまずTHE EARLY BEST。