泰山先生は風格のある外見に似合わず小心者である。
その神社を訪れたのも自分がついた嘘を告白し、安眠できない夜を終わらせたく思ったからであった。
視界が利かない本堂の闇を泰山は歩を進め、古めかしい木戸を引き、両の扉を開けて中に入った。
どんなに罪深い行ないであろうと、正直に告白すれば許されるという観音像が目の前にある。
もう、どうかと思うぐらいすぐ目の前に。 泰山の低い鼻先が少し触れるぐらいの距離に。
ここまで入らずとも懺悔はできるということを彼が知ったのは、自分が入ったあと丁寧に締め切った背後の木戸越しに、知らない男の声が聴こえてきたときだった。
「誰もいらっしゃらないですけど」
続いて宮司が言う「たしか先ほどここにお入りになった方が」
「この木戸の前で罪を告白するのですね」
泰山の顔から血の気が失せる。
木戸の前で立ち止まるべきところを、禁忌の観音部屋自体に入り込んでしまったのだ。
今すぐ出なければ… しかし非情にも懺悔は始まる。木戸の向こうから彼の背中に向かって。
「私の妻は不貞を冒しています。 誰にも口外することはなりません。
なぜなら相手が村の実力者である香取様だからです。」
瞬く間に重大な秘密を分かち合ってしまった泰山は益々出ては行けない。
「妻は香取先生を脅迫し、離婚を迫り、嫌がらせにお宅に火を放ちました。 こんなことが万一他人に知れたら」
泰山は心で呟く「ここに他人がいるよ。」
「妻はもちろん、私自身も一生後ろ指を指されて生きていかねばなりません。さらに」
泰山はこれ以上の共有を回避するべく出て行こうと体の向きを反転させる。
「娘が非行に走り、売春に手を染めております。」 泰山は一回転して元に戻る。
「相手はこれまた香取様であります」 耳を塞ぐ泰山。 「聴いてますか?」 耳から手を放す泰山。
「私自身も借金があり、他人に相談できない莫大な借金です。 やっぱり死のう。」
もはや泰山は泥人形である。
「しかし死ぬ前に一度… 観音様に会いたい。 恐れ多いのは重々承知です。でも一度でいい、観音様に… 部屋に入ることをお許しください」
泰山はただ呆然と立ち尽くす。
「入ります。入りますよ。入らせてもらいます。」
木戸が開き、静かに驚く男の声が聞こえた。
「あんた、誰?」
長い間のあと、泰山は可能なかぎり超然とした声で応えた。
「観音じゃ」
そしてこう付け加えた。
「がんばるのじゃ。」
終わり