(『教育』当日パンフより)
さようならKSKホール
らせん階段を降り、重たいドアを開けると、そこには5人の受け付け嬢が起立し笑みをたたえていた。事務所の扉の前に案内された土田(幾分緊張している)が振り向いてこう言う
「故林さん」
まだ慣れてないのか、私の名前を「さん」づけで彼は呼んだ「びっくりしますよ」彼が扉を開けると、そこには都倶楽部ビルの外見からは想像もつかない広大な事務所が広がっていた。いやこれは事務所ではない。要塞だ。大理石の柱。ロココ様式のソファ。レーダーの機能まで備えたワープロ。上に乗って空を飛べそうなコピー機。書類を携えテキパキと走り回る社員の人数は百人を下らない。私はそこに古都京都のショービジネスの中枢を見た気がした。
KSKホール。豊かな余暇のパートナー。
たしかに初めてレンタルホールという場所を訪れ、緊張していた私の印象は多少事実とは違っていたかもしれない。おびただしい人数に思えた社員も実は6名だったことを後で知った。受け付け嬢だと思ったのはチラシが詰まった段ボール箱だったし、清掃係のおじさんが昔パラマウントにいたというのも真っ赤なウソだった。しかし、1991年6月のライブ1以来、制作・情宣からホッチキスの芯の入れ替えまで徹底したバックアップでガバメント・オブ・ドッグスを支えてきたのがこの「小さな小ホール」KSKホールだった。
そのKSKが10年の歴史に幕を閉じるという。
その報せは短大時代に「女ターザン」という異名を持っていた園田美紀さん剣道二段から各メンバーに電話で伝えられた。驚く土田。印刷会社社員エディは「印刷の側から何とかできないものか?」とまくし立てた。これはウソである。犬飼は濡れハンカチで口を抑え、グランドに避難した。これもウソである。ダックスープの木藤は「じゃあ6階は剣道場にするの?」と茶化したので園田さんに電話越しに殴られた。ウソばっかりである。
私はこのショッキングな話を聞いたのは5月某日、大阪の新聞社周りをしてKSKに帰ってきたときだった。「大事な話がある」とだけ言って私をホール事務所に来るよう命じた園田美紀さん剣道二段は椅子に座りまずこう言った。「覚悟してや」私は殺される、と思った。そして彼女は強(かなし)そうにうつむき、強(さびし)そうにガツン(ポツン)と言った。「KSKホールが無くなんねん」まるで得意技の「小手面」をくらわされたかのような衝撃。客足が伸び、東京からの呼び声が聞こえ始めたこの時期にである。折しも「コントシーズン」である6月=ガバメント・オブ・ドッグス2周年を目前にして。かつエディ&故林コンビ結成20周年を間近に控えて。そして平安遷都1200周年、と同時に梅雨入りも近い。
だた、ガバメント・オブ・ドッグスは途絶えない。照明担当の芝田さんが真剣な表情で僕らをこう言って励ましてくれる。「みんな、ロボ根性だ」(でもやはりショックのパーである)。年末に予定されていたガバメント・オブ・ドッグス・ライブは大阪に開催地を移して行なう予定。みんな(私も含めて)これからどうするのか、身の振り方は未定ではあるが、「みんなで、このメンバーで、『ゆく年くる年』をやるまでがんばろう!」という当初の誓いを忘れずに、ライブを続けていくつもりやし。
7月4日。蛸薬師通りがいつも通りの夜を迎え、楽日の公演が終わった後、私は一人、コピー機の上に乗りこう叫ぶつもりである。
「飛べ!」と。
・・・そしてそんな私を見て土田はこう言う。
「何バカやってんだヒロ坊」
彼も馴れ馴れしくなったものだ。